呼吸している、えらい(気分変調症日記)

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ひとりカラオケは私が主人公なので天国

カラオケ!!!!!生まれてきてくれてありがとう!!!!!!

ヒトカラ


小さい頃は、いつも自分が主人公だと信じて疑わなかった。
ファンタジー小説に影響されまくっていたせいもあるかも知れない。
他人から「言動が主人公っぽい」と言われたこともある。
主人公である自分が住んでいる日本が世界の中心だから、テレビで放送されている外国の番組は一度日本語に訳されて、それがまた世界中で放送されているのだと思っていた。
何のために英語教室に通わせてもらっていたのか。

ついでに言うなら自分が魔女っ子だとも信じて疑わなかった私だが、冷静になるのも割かし早かった。
中学生のときに自分は風使いでもなければクラスでのヒエラルキーも下の方で、同じ部活のイケてる女の子たちにいじってもらうしか生きていく方法がない、完全なるモブキャラだと気づいてしまった。

気付いた反動は凄まじかった。めちゃくちゃに拗ねた。
なぜ私がモブキャラ扱いなの!?私が主人公になりたいのに!!!と世界と周りにキレつつ、イケイケの子たちに怯えた。
友だちはだいぶ減った。

そんなこじらせた私が、唯一全力で、微塵も疑いを持たず、まっずぐに、世界を愛で包む主人公兼スター兼アイドルになれる場所。
それがカラオケのルーム内である。ただし一人の場合に限る。

もともと、ものすごくカラオケが苦手だった。
主人公パワーを所持していた小学生の頃は、全力で音楽の授業に取り組んでいて、人前で大口開けてソロで合唱曲を歌うことも恥ずかしくなかった。
クラス内の合唱対決みたいな授業で、よく決勝戦まで残っていたのを覚えている。
ただし優勝できたことは一度もなかった。
中学生になって初めてカラオケに行ってマイクを握って声を発したとき、そして私にマイクを握らせた友人の顔を見たとき、気づいてしまった。

自分、めちゃくちゃに音痴だ。

気付いてしまったら最後、もうまともに歌えなくなった。
歌い方がわからない。声の出し方がわからない。リズムもまったくとれない。ああ、みんなの顔が怖い。空気が怖い。どうしよう。つらい。恥ずかしい。頬が痙攣する。頭が真っ白だ。
大人になってしばらく経つ今でも、そのときの白々しいモニターの明るさが忘れられない。

そこからはひたすらに、カラオケを避けた。
行っても一切マイクを握らなかった。
誘われたり、何かの流れでカラオケになりそうになったときは、「歌わなくてもいいなら」と必ず言った。
数少ない友人は初めはいらいらしていたが、だんだん呆れて諦めるようになった。

けれど、歌うことは好きだった。
歌うことというより、大声を出すことが好きなのかもしれない。
唯一、嵐が大好きな友人とは8時間耐久嵐縛りカラオケをたまにしていた。
自分の音程と汚い声と無駄にでかい声量を気にしなくていいのなら、私はいくらでも歌っていられた。

私は、自分の歌声が他人に聴かれ、評価されることが、ただひたすらに怖かった。

そんな私に軽い衝撃が訪れたのが、高校生になってしばらく経った頃のことである。
ヒトカラ」という行為が、女子高生たちの耳に入るようになってきていた。
それまでは、「カラオケはみんなで行くもの」だと信じて疑わなかった私の常識に、その四文字は光をもたらした。

「そうか、人の耳が気になるのなら、一人で行けばいいのか」

ただ、まだ世間には「カラオケに一人で行くのは恥ずかしい」みたいな雰囲気があった。
そこで私と部活の仲間たちが取った行動は、
『受付までみんなで行って部屋を別々に取る』
だった。
この方法も結局一度か二度しか取らなかったのだが、それ以前に高校の友人とカラオケに行った記憶がこれ以外ない。
ヒトカラという光を見つけた私がその光に完全に包まれるのは、大学生になってからである。

大学生になって時間とお金と県の条例の縛りが緩くなり、さらに世の中にじわじわ「ヒトカラ」が浸透し始め、私は遂にその光を手に入れた。
人の目をかなり気にする私が何も気にせずヒトカラに行けるようになったのは、普通のカラオケ店に「ヒトカラのお客様へ」という注意書きが掲載されているのを見たときだ。
「混雑時は複数人のお客様を優先させていただく場合がございます」みたいな内容だったと思うが、その注意書きが掲載されるということは一定数ヒトカラのお客さんがいるということで、「自分だけじゃないなら恥ずかしくないや」というマインドになった。

さて、世の中には、二種類の人間がいるのではないか。
すなわち、
カラオケで『自分の歌を聴いてほしい』人間と
     『他人はどうでもいい、ただ自分が歌えればいい』という人間とである。

圧倒的後者の私には、もうヒトカラは天国だ。誰と行くより楽しい。

私はヒトカラを二時間のソロステージだと思って臨む。
部屋の壁の向こう側に、イマジナリー観客を見ながら全力で歌う。
どれだけ感情を込めても、手が動いても、足が動いても、泣いても、イマジナリー観客しかそれを見ていない。当たり前だがイマジナリー観客は私のライブに足を運んでくれた私の大ファンなので、私の一挙手一投足に心打たれて一緒に涙してくれる。
明るい曲のときにはとびっきりの笑顔を。
苦い歌詞の部分ではお客さんにに縋るように。
歌詞に「君」が出てきたら観客を指さすし、「君と僕」は私とファンだ。
キャラソンを歌うときは声優かキャラクターが私と一体化しているから、どんな声を出してもどんなセリフを言っても恥ずかしくない。私は羽川さんだし、シェリルだし、姫野美味香なのだ。
今この瞬間は私は何にだって誰にだってなれる。この場では私は本当に主人公だ。
私はこの歌で、みんなを救う。

イマジナリー観客は私なので、救われるのは私自身だ。


さて、最後に私の音痴について、もしかしたらここまで読んでくれた方の希望になるかもしれないので書いておく。
私はヒトカラによって歌うことに慣れ、結果音痴がマシになった。
精密採点システムの音程の正答率を見る限り、どうしようもない音痴であることには変わらないのだが、声の出し方、歌い方を身体が覚えてきたのである。
参考になるかわからない数字でいうと、80点に乗っかれば御の字だった点数が安定して85点前後を採るようになり、調子がいいと90点を採ることも出来るようになった(そういうときは嬉しすぎて絶対写真を撮る)。
自分なりの歌声の発し方とリズムの取り方がつかめれば、あとは音程が合っていなくてもひとまず楽しんで歌える程度にはなるようだ。
楽しんで歌えるようになると、だんだん人前で歌うことにも抵抗がなくなる。

私は数か月前、10年間、「歌わなくていいなら」のわがままに付き合わせ続けた友人の前で初めて歌った。
友人からは何の感想もなかった。

案外、カラオケで他人の歌声を聴いている人は少ないのだと思う。


今週のお題「感謝したいこと」