呼吸している、えらい(気分変調症日記)

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「生きていればどうにかなる」は信じていない

勘違いが怖いので先に述べますが、「生きて」というメッセージを否定する気は全くありません。
自死を推奨する気も全くありません。
私自身はどうにもなっていませんが、この瞬間はこの文章を書くために生きています。


この考え方は私が精神疾患になるきっかけにはなったかもしれないけれど、精神疾患だからこう考える訳ではないと思います。
私の死生観です。

「生きていればどうにかなる」とは、どうにかなった人しか言わないので、信じていません。
「どうにかならなきゃ生きていちゃいけないのか」なんて、ひねくれてしまいます。
どうにかなった人の復活方法や考え方を参考にすることはあります。
でも「生きていれば———」という言葉は飲み込めません。

全く関係のない人に、何も考えずに「死ぬのはだめ」と言う人も信じていません。
その気持ちは尊いものだと思うし、私も目の前で死のうとしている人がいたら同じことを言うと思います。
だから、自分のその感情も信じていません。

例えばとっさに誰かの死を止めたとき、私がその人の死を止める理由は、「止めるのが世間の常識だし、たぶん良いことだから」です。「良いこと」というのは、建前はその人にとってだけれど、本音は自分にとってです。

元も子もないことを言いますが、私がある人の死を止めたとして、その人のその後の人生をすべて負うことが出来るか。親兄弟なら考えますが、全く知らない人に対して、私はそれは出来ません。

以前、深夜に首を吊ろうとした私のもとへ、友人がやって来て、一緒に泣いてくれたことがあります。
その友人がそれからしばらくして、私に言いました。
「あのときあなたを止めたことが正解か、いまだにわからない」と。

「どうにかなる」に救われない人は、他人の生にも自分の生にもそういう葛藤があるのではないかと思うのです。

「そんなことを言っていたら、救えるものも救えない」「じゃあ黙って見ぬふりをするのか」という意見があるかと思います。
私の中にもそう叫ぶ人がいます。
この記事はあくまで私の考え方を記したもので、みんながこう考えるべきだとか、この考えを布教したいとか、そういう意図は一切ありません。
こういうひねくれた人間もいるんだな、くらいにとどめてください。

私に出来ることは、自分に関わりのある人が死に向かおうとしていたら、「私のために生きてほしい」と願うこと、そう願ってしまうことについて葛藤すること。
そして、せめて、誰の背中も死に向けて押さないようにすること。

それくらいしか、ありません。