呼吸している、えらい(気分変調症日記)

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万人に好かれたい症候群

人の怒りや不快感に触れることがものすごく苦手だ。
自分に向けられたものでも、他人に向けられたものでも。

例えば、電車の中で聞こえてくる悪口が、自分が言われているように苦痛だ。

敏感とか繊細とか優しいとか、ではなくて。
とにかく人から嫌われるのが怖い。
私に対して不快感を抱いてほしくない。

例えば、道で誰かとぶつかったとき、向こうからぶつかってきたとしても、睨まれたり舌打ちされたりすると「今あの人は私にマイナス評価を付けた」と、自分がその人の不快感の原因になったことが嫌だ。

どんなに関わりのない人からも、「良い子だね」と思われていたい。

そして、自分が「今私は誰から見ても良い子だ」と思えているとき、私は他人のことを見下している。
あの人たちは「悪い」人たちだ。
それに比べて私は何て良い子なんだ。
ほら、向かいに座っているあの人も、きっと私に感心している。

この思考回路は今現在私には止められない。
電車の中。
食事の席。
歩いているとき。
不特定多数の人間に、私は好感を持たれようとびくびくしている。

こうして後から「あのときそうだったな」と反省することは出来る。
じゃあなんで止められないのかと言えば、もう「反射」になってしまっているからとしか言いようがない。
周りの人たちを見下すことに関しては、「反動」だろうか。
普段「良く見られたい」と思い続けて生活しているから、「良く見られている」と思ったときの快感と思い込みが大きい。
自意識過剰な私は、他意識(という言葉は聞いたことはないけれど)も過剰だ。

こういう私はTwitterに向いてないな、とつくづく思う。

なにか問題になっていることがあり、Twitter上で怒り狂っている人を見ると(見なければいいのに見に行ってしまうのだ。これこそ病気だよ)、例のごとく苦痛を覚える。
自分と全く関係のないことだろうが関係ない。
そして真剣にその問題についての意見を考え出す。

ここでかなり精神的がすり減る。
なんにでも興味を持ったり自分の考えを持つことは大事だと思うけれど、そこで精神面も揺さぶられたり引きずられたりする人は、しばらく意識的にその行為を避けた方がいい。と私は自分に言い聞かせている。
自分のためはもちろん、正直言ってその状態で冷静な判断は出来ない。
自分ごとのように考えることと、自分と他人の感情の線引きが出来ていないことは似ているが違う。

話は戻るけれど、真剣に、布団の中でもぐるぐると考えて考えて、必死で私が考え出すのは、「誰にも嫌われなさそうな答え」だ。
結局そこに行きついてしまう。
「誰にも嫌われそうな答え」の中には、もう自分でも、どこに自分の考えがあるのかわからない。

そしてもう一度Twitterを見て、考え出した答えと違う答えがつぶやかれているのを見たとき、私の心は、今度はそれを自分に対しての敵意として、恐怖として受け取ってしまう。
私はこの人に嫌われるのだ。と。

お気づきだとは思うが、ここまでの流れで、私は誰とも直接かかわっていない。
電車内の悪口は私と全く関係のないところで囁かれているし、ぶつかってきた人とはその瞬間は接点があってもその後やり取りがあった訳ではないし、Twitterに関しては同じ空間にすらいない。誰かにリプライで意見を述べたことも無いので、Twitter上で攻撃されたこともない。

全部、私の頭の中だけ。
ここまでわかっていても、この思考を止められない。

「うちはうち。よそはよそ。」
「他人と比べてもしょうがない」
「あなたが思っているほど、周りはあなたのこと見てないよ」
「他人の評価なんて気にするな! ゴーイングマイウェイ!」
全部わかっている。全部その通りだと思う。
どんなに言い聞かせても、心が納得してくれない。

これは治るもの? 矯正出来るもの? おかしいこと? 普通な事?


余談。
こんな私なのに、凝りもせず自分からトレンドの炎上を眺めに行ってしまう。
最近はそれを避けるためにTwitterの地域と居住地を知らない国にしている。
これで少なくとも検索画面で理解出来る言語ののトレンドが目に入ってしまうことはない。
検索画面を開くなって話である。