呼吸している、えらい(気分変調症日記)

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わたしがきえたあと

ちょっと前なんですけど、親戚が亡くなりまして。
別に急でも何でもなかったんです。
ここ数年、ずっと闘病していた人でした。

その人の死については、特にお気持ちを述べたいというお気持ちはありません。

私が書き残しておきたいと思ったのは、今日、その人が元気なときに食べようと思って、小分けに冷凍しておいた、肉や野菜が煮込まれたカレーを食べたこと。
一人で食べるにしたって少ない量で、我が家で食べたらあっという間になくなってしまい、それを母が「切ない」と言ったこと。
他にも、化粧品、健康器具、保存食、様々なものがその人の家から我が家に来て、そして私たちが消費していくこと。
その人が亡くなってから届いたはがきを頼りに、知り合いであったであろう人に「生前はお世話になりました」という手紙を書く作業。
こちらからの連絡の取りようのない、その人の死を知りようもない人たち。
私たちの手でシュレッダーにかけられていく、その人の買い物の履歴。

私は、「人は一人では生きていけない」も、「人は結局最後は一人」も、どちらも信じていたし、どちらも信じたくなかったけれど、それでも、限りなく「一人」で生きたかった。
今は、嫌でも一人で生きていくことになるだろうな、と思うことが増えた。

でも、一人で生きても、一人で死ぬことは難しいのだと思った。
一人で死ぬのが難しいのなら、一人で生きていくことも難しい。

親戚の死でこんなことを思うのは不謹慎なのだろうか。
でもじゃあ、この感覚は他にどうやって学べばいいのだろう。
私たちはこの作業や食事で、その人の生をつないだことになるのだろうか。
この数か月は、この回る世界において、「私」という血において、「人間」という営みにおいて、どんな意味をもつのだろう。

母から、明日はその人の家にあったドライフルーツミックスでお菓子を作ってほしいと言われている。
明日の私は、何を思って粉をふるうだろうか。